2024年08月10日

競馬とブラックジャックで750億円稼いだアラン・ウッズ

小ネタ
競馬とブラックジャックで750億円稼いだアラン・ウッズ

ざっくり言うと

  • カードカウンティングを駆使し、ブラックジャックで数億円稼ぐ
  • 競馬の攻略ソフトを開発し、世界中の競馬で5~6億ドル(750~900億円)稼ぐ
  • 適切な場所で、適切な手法を使えば、ギャンブルで勝つことは不可能ではないことを証明

適切な場所で、適切な手法を使えば、ギャンブルで勝つことは不可能ではないことを証明したアラン・ウッズ

アラン・ウッズは、1945年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州マーウィルンバの企業家一家に生まれます。多くのギャンブラーが貧困から抜け出す方法を求めてギャンブルの世界に足を踏み入れるのとは異なり、ウッズは生まれながらにして裕福でした。

ウッズは、少年時代、カードゲームに夢中になり数学への興味を深め、ニューイングランド大学で数学の学位を目指します。彼は並外れた頭脳の持ち主で、ほとんどの課題を難なくこなしましたが、授業には出ず学校のルールも守らなかったため、学位取得まであと1学期というところで退学になります。それでも、裕福な家庭環境にあった彼は、焦ることなく職を転々とし、自由気ままな生活を送ります。ウッズがギャンブルにのめりこむようになった理由のひとつは、時間が有り余っていからだと言われています。

 

ウッズが本格的にギャンブルに目覚めたのは大学時代。学友数人に連れられてカジノに行ったのがきっかけです。ウッズは、ポーカーやスロットなどあらゆるゲームに挑戦しますが、他のギャンブラー同様、そこで勝つことはありませんでした。

どうすればギャンブルで勝てるかを考え始めたウッズは、エドワード・ソープが生み出したカードカウンティングを学びます。地元のカジノで数回カードカウンティングを成功した後、ウッズは、ウェストポイント・カジノでハウスエッジを計算する仕事に従事します。ブラックジャックのハウスエッジがいかに低く、カードカウンティングでどれだけ有利になれるかを知ったウッズは、カジノでの仕事を辞めラスベガスに勝負を挑みます。ウッズは、6ヵ月間、ほぼ毎日ブラックジャックをプレイし10万ドル以上稼ぎます。そして、勝負の場をヨーロッパやアジアの各国、オーストラリアのカジノに変えながら、ブラックジャックで数百万ドル稼いだと言われています。

やがて、カジノはカードカウンティングへの対策を講じ、カードカウンターのカジノへの出入りを禁止します。ウッズも例外ではなく、カジノのブラックリストにその名を連ね、彼のカードカウンターとしてのキャリアはここで終了します。

 

その後、ウッズは次のギャンブル攻略を模索し始め、若い頃に頓挫した競馬攻略に再チャレンジすることになります。彼は、カードカウンター時代の無二の親友で競馬攻略でもそれなりの成果を収めていたビル・ベンターとチームを結成します。

ウッズとベンターは、競馬に関する本を読みあさり、従業員を雇ってレース記録を膨大なデータベースにまとめます。そして、情報科学者ジョン・ラリー・ケリー・ジュニアの理論を元に、9ヵ月かけて競馬の予想ソフトを作り上げます。これは、当時存在したどのソフトより高確度でレースの勝者を予想することができたようです。ウッズとベンターは、このソフトで数百万ドルを稼ぎだしますが、取り分で揉めてすぐにチームは解散することになります。独立したウッズは、自身が開発したコンピュータープログラムで、その後も長年にわたり世界各国の競馬で勝利を続けたようです。

一方で、ベンダーは、2001年11月6日、香港の競馬場で3レース連続で大荒れのレースの1~3着を的中させ、1億1,800万香港ドル(当時のレートで約18億3,000万円)の払戻金を受け取らず、賞金を慈善団体に寄付するという逸話を残しています。彼が当たり馬券を換金しなかったのは、競馬場から出入り禁止にならないようにするため。せっかく開発した高性能の競馬攻略ソフトを無駄にしないためです。後にベンダーは、競馬で10億ドル(1,500億円)を稼いだとブルームバーグのインタビューに答えています。

 

2008年1月、ウッズは、盲腸がんが他の臓器に転移し、わずか62歳でこの世を去ります。ウッズが稼いだ正確な金額は明かされていませんが、世界中の競馬で5~6億ドル(750~900億円)を手にしたと言われています。晩年、ウッズは慈善事業に数百万ドル単位の寄付を惜しみなく行っていることが彼の大勝利を裏付けています。